■■■「変える自由」について考えてみると
もちろんわたしの根底には「無根拠」な気分がある。けれどだからといってその時その時の状況が「真理なるもの」や「正義なるもの」として分かり易い形でわたしに見えるのかというととんでもない話しで、「真理や正義なるもの」が想像にすぎないことを言うために「物自体」(カント)があると言われたのでしょ。だから、ここから「本質はない」ことが規範化するなんて逆転(本質化する)はありえないはず。
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「真理や正義なるもの」が想像であると言うとき、同質的なものへの回収や規範化への逆転を阻もうとする、その様な在り方を強いる意志、命令がある。「真理なるもの」や「正義なるもの」は有るし無い。真理も正義もわたしにとってどうでもよいものであるが、わたしの生き方をかけて懸命にそれに近づこうとするだろう。
違いだけがただあるそれぞれの生の様式が出会ったとき、暴力が、政治的な同質性にこだわることによる排除や危険がもたらす防衛によって孕まれるとき、平和と愛の名のもと互いが拘泥し正当化する幾千もの「真理や正義」が争うとき、なおかつ、暴力は互いに死しかもたらさず、勝者がいないことを考えるとき、互いに頭を垂れて野卑に取り引きするしかないだろう。
もう考えるの止めた!疲れた。口内炎ができて痛い。