小6同級生殺害

衝撃的な事件。報道を見ると児童は殺害の動機について交換日記やチャットでイヤなことがあったから、と話しているらしい。神戸の少年事件では加害者の「未熟な性衝動」が背景にあるといわれていたが、「透明な僕」と言わしめるそれなりの心的状態があったのだろう。そうした、ありふれた、陳腐で、しかし(当人にとっては逃れようのない)激烈な情念や状態が冷酷な殺人に結びついてしまった。
人は誰だって―他人には馬鹿馬鹿しくみえることでも―逃れることが出来ないのではないかと思うほどの感情に苦しむものだ。そうしたとき、状況や原因を見つめ、知ろうと努めることしかできないし、たとえそのとき視界が開けるようなイメージや認識に至ったとしても、苦しみは変わらずそこにあって、時が癒してくれるのを待つしかないことだってある。感情の原因を見つめられなかったら(立ち向かえなかったら)神経症の原因になりうるし、感情の克服はより強烈な感情によってしかなされない。―『エチカ』に書いてあったのはそういうことだと思う。
想像だけど、もし、女児や少年が自分を苦しめ苛む感情から逃れようと、その原因を考え、それを克服するために決然とした意志を持とうとしたのなら、―少年は透明な僕というそれなりの分析を持っていたし、女児はチャットでのトラブル―そして彼らが至った意志とは殺人だったわけだが、そうした考え方というのは、理性信仰、(例えば、命は尊いというような)理性や意志の力で苦しい状態を克服しようとするものだった、のではないか。
スピノザは、「理性や意志の力によって感情や欲望を克服する態度を否定した。(柄谷)」し、また「真理やイデオロギーというものは想像に過ぎない」と言ったのである。