アジアカップ

アジアカップでのジーコジャパンに感動。ジーコがいう「自由にやる」というのは技術とか戦略とかいう問題以前に、選手を自律させたんだなあ、と思う。大選手だったジーコは自分が持っていた一番大切なものをA代表に伝えようとしている。
あたしはBSで見ていたので中国の観客のブーイングや騒ぎは気にならずに見られたけど、さすがにちょっと考えたこと。最近の日本人留学生の出し物事件やなんかの騒ぎをみていて「アレッ・・」と思っていたのだけど、今回のアジアカップでつくづく分かったのは、日本はかつて侵略したアジアの国々から激しく今に至るまで嫌われているんだということ。(BSのドキュメンタリー番組で)フィリピンのキリノ大統領の娘が証言するように空中に赤ん坊(彼女の妹だった)を放り投げ銃剣で刺し殺したような国、日本国はいまでもそういうイメージで見られる国なのだ。そういう国の人間からマナーなんぞについて教えてはもらいたくないだろうし、かえって憎しみがつのるってもんだろう。
ところで、その日本人を憎んでいた(奥さんも殺された)キリノ大統領は戦犯で有罪になっていた108名の日本兵に恩赦を与えた。政治的にも不可解(フィリピンにとって利益がない)決定だった。キリノの決定に際して力があったと言われているのは、一人の日本人僧侶だ。彼はキリノ大統領に会ったとき、日本兵死刑囚の作った曲を聞かせた。思うにキリノ大統領はそのとき始めて、イメージではない個人の姿に思い至ったのだと思う。この前にキリノは14名の日本兵(半数は無罪を主張していた)を処刑している。その時の彼にとって、14名は残虐非道な国の人間にすぎなかったろう。しかし、僧侶に会って以来、彼は死刑を命じることが出来なくなったのではないかと思う。彼には美しい曲を作る日本兵やかれが感じ入ってしまった態度の僧侶やそういう個々人の哀しみや生活者としての姿が見えたのだ。
今回のアジアカップで中国人観客の日本国に対する嫌悪を目の当たりにしてあたしは言葉を失う。しかし、バーレーン戦やヨルダン戦は客観的にみても面白い試合だったと思う。日本国にたいする嫌悪のイメージは、そうした懸命に戦う選手たちの素晴らしさ、ゲームの面白さを見過ごさせてしまったように見える。あれだけのゲームをした両陣営の選手たちに拍手はなかった。
ナショナリズムには国家に対する反逆や革命の意志が含まれる。しかしその仮象性は対外的には攻撃性や排除として働きがちで、また、オリエンタリズムとしての賞賛ですら、個々人の姿を見失わせる働きがあるのだという。それに対抗出来るのは、キリノ大統領が至った心境―それは良心*1というほかない―を通過することなしにあり得ないのだろうか。

*1:フロイトの「死の欲動」の概念。攻撃性が外部に向かわず自己に向けられ、自我の一部と結びついて良心となり、自我と対立、己を律するようになる、という。