<気分>としての階層


「KES*1」(ケン・ローチ監督)

TVで「ケス」をやっていた。
あたしはイギリス映画が好きだ。例えば、(中流階級の雰囲気が濃厚な?)ヒュー・グラントの辛口のトークシェークスピアを題材にした映画なんてのも楽しいのだけど、あたしが最初に目を見張ったイギリス映画は「ブラス」。どうもあたしの住む町はイギリスの下層階級の<気分>とそっくりじゃないか、と思い続けてきた。産業の衰退などというような構造的な類似があるのだろうと人ごとでいたのだけど、「ケス」を見ながら、そういう気分を文化階層としてみるなら、あのビリー少年の気分は少女の頃のあたしの気分だった。あたしはそういう文化階層(気分)のなかの人間だということだ。それは、独立独歩で階層の壁が低かった(と思われる)父の世代の気風とも断絶している。
ビリー少年のような気分(あたしの気分)というのは、あろうがなかろうがヒエラルキーを顕在化し、自己の無力さを明瞭にしない。