子どもは判ってくれない

「大人は判ってくれない」*1(フランソワ・トリュフォー監督)BS放送。アントワーヌ少年が父権的というのか、集権的規範による抑圧の―両親は警察と結託してたった一回の盗みを働いた息子を感化院に放り込むのだが、こうして厳格に為される社会適応化のための措置が当たり前だったようにも見えるし、そうした装置の効果が信じられていたのかもしれない―もとにいることになんだか(知っていても)びっくりしてしまう。しかしアントワーヌはこうした抑圧による主体化の道筋をすり抜けるような子どもなのだ。
50年前のフランスのガキといまの日本のガキを比べようというんじゃないし、あたしが子育てしていて学校と地域に関わらざるを得なくて、その印象でしかないけど、、ウチのガンチョのまわりには(原理的、集権的な)規範的抑圧作用なんてまったくない。うそぉ、と思うかもしれないがほんとである。学校や地域の集会に集まる大人たちはたとえば子どもの問題行動に対しても(法を無視することはないが)、臨機応変で(子どもにとって実利的な)対応をする。
だから、原理的、集権的な抑圧が欠けていて、「他者の欲望を生きる」なんて指向性が強くなれば、「他人に認めてもらえなければ生きていけない」と追い込まれる子どもだってでてくるだろうなと思う。今の子どもの社会不適応事態のきっかけは案外そんなとこにあるのじゃないかと思ったりもする。だけど、(何とか代議士が言うような)「日本の精神」だとか「伝統」だとか、想像の共同体にアイデンティティを持ったとしても、通用するのは戦時体制時に他国を足蹴にするくらいのもので、職業を選択するとか、人生の困難や岐路に立たされているとき、ほんなアイデンティティなど邪魔でしかないかもしれず、コツコツと積み上げてきた自信とか責任感とかいったあまり目立たないけど小さな自律的な姿勢こそが大いにものを言うだろうとあたしなんかは思う。