「A question of Leadership」

BSで「イスラム社会のゆくえ 過激派対策は可能か」というドキュメンタリーを見た。*1
NHKの内容紹介は以下のようになっている。


7月にロンドンで起きた同時多発テロを受けて今イギリスでは国内に暮らすおよそ200万のイスラム教徒のなかから第二の自爆攻撃犯が生まれるのをどのように阻止するかが大きな課題となっている。8月末にBBCの看板番組「パノラマ」の1本として放送された本編は、イギリス最大のイスラム信者の組織MCB=英国イスラム評議会の指導者たちが身内の過激派取り締まりのためにリーダーシップを発揮できるのか検証したもの。イギリスにはサウジアラビアパキスタンパレスチナイスラム原理主義の影響を受けたグループが各地に存在しており、英国イスラム評議会がどこまで過激派をおさえることができるのか疑問を投げかけている。(nhk)
ショックだったのは、
イスラム教の聖職者(過激派)がイスラム教徒を称揚し、「キリスト教徒だからユダヤ教徒だからだめだ」みたいないわゆる差別発言をしていたこと・・。

「差別すること」は危険だ。差別意識をなくすためには、自由と平等が達成される必要があると岩田靖夫氏が書いていた。平等とは「国を作って、その国のあり方に責任を持ち得るという点だ」という。
アメリカで法規上だけにもせよ、奴隷制の廃止が実現したのは十九世紀の南北戦争後。日本女性の参政権は、ほんの六十年前。アメリカの黒人の公民権運動は、もっとあと」だ。
しかし、まさか、イギリスがこのレベルにあるとは思えない。法規上、人権も整備されていただろうし、差別的な意識にたいして良識のある成熟した国民というイメージをわたしは持っていた。
一体、なにがどううまくいかなかったのだろう・・?つまり、英国内イスラム教徒の一部が過激に走った引き金は、イラク戦争でありアフガン戦争でありパレスチナなのだろう、とは思う。しかし、彼ら国内のイスラム教徒の貧困や格差や差別状況を打開しようとするとき、なぜ、成熟したかの国の良識(正当な方法)が退けられて、最悪な方向への流れが産まれるのだろう?

*1:「世界のドキュメンタリー」11月25日(金)後9:10〜10:00制作:BBC/イギリス/2005年