『ポスト・モダンの左旋回』仲正昌樹

ポスト・モダンの左旋回
デリダの遺言』を読んだとき、どーして柄谷氏や高橋氏を批判するのかがよく理解できなかったが、この本をみっけた。

・・つまり、93.4年ごろ?からの柄谷氏や高橋氏らの政治的言説に対して、ローティのようにプラグマティックにやっちゃうならいざしらず、もしくはデリダのように左旋回についてきちんと理論的に説明するならいざしらず、彼らの大上段に構えた物言いやナイーブさってのは、それこそ、彼らの批判、脱構築しようとしてきた当のもの(の再現前)ではないか?!・・・って言いたいんだなとおもう。たぶん。

・・・なんとなく、頭を抱える、あたしなのだ。なんとなく、おもうのだけど、柄谷氏って、ローティやデリダの「法と正義」を読んで、「わかるわかる」とかおもったんじゃないかと想像し、でも、ローティのようにやるには問題があるとおもったかもしれず、もともと、「主体の構築と脱構築(っていいかたもまちがってるかもしれんけど)」の足場に二またかけて立っていたような彼らは、しょうがなかったんじゃないのかなあ・・。と、イーカゲンなあたしはおもう。