ワーキングプア
NHKスペシャル「ワーキングプア−働いても働いても豊かになれない」を見た。*1
暗澹たるきもち・・。
この番組では、高齢の紳士服の仕立屋さん、リストラ後、アルバイトを掛け持ちしている50代の父親、大家族で農業を営んでいる家族が二組、そして、アルバイトやパートの仕事さえなかなか見つからない30代の若者二人、とゆう人々が取材されている。
農業を営んでいる家族を別にすれば、仕立屋のお爺さんと、50代の父親は、家庭を一人で背負っている。おばあさんが入院せず元気なら、二人はどれだけ貧しくても年金でたのしく暮らせていたはずだと思うし、50代の父親も妻が生きていたなら、二人で働いて、子どもの教育資金くらい捻出できていたはずだとおもう。そして二人の若者は家庭も(どうやら住む家も)ない。彼らが仕事を獲得しようとするとき、その基盤が失われていることが、障害の一つになっているとみえる。
人は社会との関係の中で生き、学歴や専門知識や技術や諸々のもので社会と繋がり、それを元手に、労働力を売ることができるだろう、とおもう。こうした社会との関係をつくり育て上げていく基盤は、家庭という単位だと考える。むかーしは、家庭があろうがなかろうが、中学校や高校から就職していって会社や工場などが家庭の肩代わりをしていた時代もあったとおもう。いまは、そのかつての「会社」、終身雇用の会社が崩れ、正規の従業員を少ししか取らない以上、アルバイトで繋いでいた若者は、社会との関係が作れず、孤立していく。元手が育て上げられていないから、労働力を売ろうとしても不景気であるときは、買い手市場だ。
仕立屋のお爺さんと、50代の父親は、家庭という単位を維持することに悲鳴をあげている。老齢、介護、子育ての負担。家庭のみなが元気であることが絶対条件になってしまっている。(たとえば価格競争に負け離農が進めば、小さな単位に別れざるを得ない)家庭は、仕立屋のお爺さんや50代の父親のように、いつ、負担が増えるか分からないし、そうゆう家庭の若者が自立自尊で、アルバイトに駆け回り、社会の中で(元手を育てることができずに)孤立してゆく事態はもう始まっているかのようだ。
働きさえすれば、貧乏でも税金が払える生活ができること、その程度の貧乏は怖くない、たのしく暮らしていけるもんです。でも、それすらかなわない社会になってきているらしい、ということは、死ぬほど悲しい。
家庭という単位を補ったり助けることができる某かの組織や保障の仕組みを考えること、とあたしがおもうのは、古い時代の人間だからか?
でもともかく人は某かの労働力を売ることで、最低限の生活が保障される権利がある。ここは譲れないじゃないか?
続き;
「うう、うぅ、資本主義ぃ・・」とあたしは呻いていたらしい。「どうしたの?」と高校生の息子が聞いてきた。だからあたしは勢い込んで「たいへんなことになっているらしい」と息子に言ったのだけど、「世界はもっと悲惨だから」と彼はこざかしいことを言う。
上の息子とはなんだかんだとおもしろく話しも続いたのだけど、この下の息子とは話しが続かない。すぐおわる・・。(・・)
閑話休題、地域通貨の可能性はどうなってるのだろう?そう、それとやっぱ、学校が充実してほしい。労働力の担い手としての可能性や選択肢をひろげさせるための学校の充実。こっちならお金をかけずになんとかなりそうな気がしない?甘いかしら?
ところで、秋田の連続児童殺人事件の記事を読むと、「彩香ちゃんの服装の汚れや、朝食をあまりとっていないとみられるなどの異変を感じた町立藤里小が昨年、民生児童委員に連絡」していたのだなあ・・。つまり虐待の疑いがかけられていたのだなあ。むかしは、この程度は虐待と言わなかったろうなあ。
なんていうか(殺人に繋がった問題だってことを括弧に入れて考えると)、こうゆう公的な指導は一元的な管理みたいで息苦しくない?家庭は色んな形があっていい。だから家庭というものにたいして何らかの公的な援助をするってことは線引きが難しいのだなあとおもう。
うーん・・あたしって福祉型より、機会平等のほうがイイとおもってるのかなあ・・。うーん、そうゆうわけでもないんだけど・・。うーん・・。わけわからんワ。