こうして長くブログをやっていると、2つ3つ、大ファンになるブログができる。その中の一つで鬱のカミングアウトを読む。
実はたぶん夫も隠れ鬱だとあたしは思っている。彼が腰が痛いと言いだしたとき、精神的なものだとあたしはおもった。夫はどっちかっていうとナルシスト。いや自分でもそう自称するわけではっきりナルシストなんだし、責任感がすごく強い、とか、もないし(あたしは彼のナンダッテドウダッテイイというところにすごく惹かれる)、へんだなあ、鬱じゃないよなあ、とか考えていたけど、ともかく、彼は嫌だと思う仕事をしていて、だから、あたしは、仕事なんか辞めれ、と言った。ボンビーも問題なし、あたしが養うから好きなようにしてなさい、と言った。そして、その腰痛は精神的なものからきていると思うから心療内科に行け、と言ったのだけど、精神的なモノではないと譲らなかった。ある日、知り合いのドクターから精神的なものから来ているのではないかと言われた、と言って帰ってきた。おかげで、薬を手に入れて飲むようになって、彼は危機を脱したのである。今でも一年にいっぺんくらい腰が不調になるけど、彼はもう余裕でそうゆうモノとつきあっているようだ。
でもって、かくいうあたしは神経症である。たまに軽く来るなぁ、ってかんじで苦しくなる程度。ほとんど直っている。あたしは、子どもの頃、完璧じゃないと嫌で、正義に拘り責任に拘り、ほとほと疲れてあるとき、あたしはこうゆうあたしの煩わしい部分は一体なんだと考えた。で、正義がなんだ、責任が何だ、とおもうようになったんだ。でもどっか基底の部分にあたしのこの要素はいまでもあるとおもうけど、あたしは考え方としてそうゆうものの価値とか意味とかを疑うようになったんである。あたしは時代のある枠(空気)のなかで勤勉さ(=責任・正義)を身につけ、そうして別の空気の中でそれに反発したのである。労働とは、会社の求める役割をきっちりこなし、それだけではつまらないので少し創造的なやり口もプラスして、家に帰れば、自分に戻る。あたしは割り切って仕事をしている。が、3年以上、一つの仕事を続けたことがない・・・。あきあきして疲れてくる、神経症がちょっとづつ、浮かび上がってくる。はぁ・・難儀なんである。
・・・いまのとこあたしはこれで納得している。そうねえ。