父と靖国

父は「天皇のために」戦争に行ったそうだ。しかし戦後は昭和天皇にすっかり失望し、わたしが知っている父は民主的で温厚だ。ある日、母が笑いながらわたしに耳打ちした。「父さんは靖国に入れるモンなら入りたいんだってさ。」驚いた!バクテンが出来るものなら連続5回まわって燃焼系アミノ式で両手を上げて着地してみようか、ってほど驚いた。
つらつら考えるに父は、靖国に入って英霊と共にある種の無限性を保証されたいのだ。(これは切ない。)父にとっての靖国とは「超越論的仮象」であり、彼はナショナリズムの残党なのだ。「ナショナリズムは感情や感性の問題ではなくて、理性の形而上学的要求に根ざしている」(柄谷)。しかし、驚いてばかりいられない。わたしの基底には何か倫理的な感情的な美的な絶対的なものがある。スタイルが違っていても「超越論的仮象を求めた」という点でわたしと父は同型だろう。そういう意味で言えばオウムで解脱を目指した人も同型だろうと思う。問題は「超越論的仮象」なしには生きがたい、ということだ。そうした傾向を「理性の欲動」と考えた柄谷はフロイトのペシミズムに出会ってしまう。ナショナリズムが解体され、既存の宗教が力を失っているといわれるとき、殺人集団化するオウムは超越論的仮象の要求を容易にすくい上げたのだろう。
ロマン派は共同体主義に吸収される。それは歴史が物語っている。
カントは「統整的な働きの理念」と言った。夢の国はずっと待ち続けているのだろうか。

ずっと前からぼんやり考えていた「ほっといてくれ」というホームレスもやっぱり「理性の形而上学的要求に根ざしている」問題なんじゃないかと思えてくる。宮台氏の一連の問題提議、(しかし、この人は下品だ)、は、考えたくなくても考えちまう。