■■■(根拠なんて言えないけど)昔の犯罪は解りやすかった、という印象がある。例えばF少年が人を殺すに至った背景は貧困、保護者の不在とかいうような社会的な問題という分かり易い形で喧伝されていたような印象がある。その頃だって被害者の応報感情は苦しみに満ちて絶望とともにあったのだと思う。今も昔も何も変わりはしない。けれど、そのとき刑罰の考えかたとしての教育刑は広く受け入れやすいものだった、と思うのだ。つまり、例えばF少年が少年院で矯正されて社会に復帰してくる、ということに恐怖や不安が広く共有されなかった、ような気がするのだ。マスコミが取り上げなかっただけの話しかもしれないが。そうするとわたしの話しは成り立たないけど。
(まあ、続ければ)、けれど、サカキバラ事件やオウムやトラックの運転手の飲酒運転で子供が焼死した事故とか、現在の事件の「わからなさ」「理解のしようのなさ」みたいなものが、不安感や恐怖という社会的な雰囲気を煽る要素があるのではないか?そのとき、教育刑的な考え方は恐怖や不安に押しやられ、応報刑的な考え方が全面に出てくるのではない?つまり、不安や恐怖といった社会的な雰囲気は被害者の応報感情を楯にして強力になり、死刑廃止を許せない要素の一つになるのでは?
教育刑死刑廃止」「応報刑死刑存置」という括り方は間違い?(上の話しはこれを前提にしてるのだけど)。(・・)