今時の裁判の論理

田川健三さんがこんなことを書いてらっしゃる。 *1

転載
しかし、よくお考えになって下さい。大多数の精神病者は、精神病を病んでいるその最中においても、十分に是非善悪を判断する能力を持っているのです。私は、大学の教師であり宗教学者であるという仕事上、かなり多数の精神病者とかかわってきました。そして、私の知っている精神病者はみんな、むしろ他の人たちよりも、はるかに是非善悪の判断に関して、敏感です。非常に敏感であるからこそ、しばしば、ほかの人よりも心理的な負担が非常に大きく、そのせいで病気になったりするのです。そういう人たちを多く見ていると、精神病者は是非善悪の判断に欠ける存在だ、という今時の裁判の論理には、非常に腹が立ってきます。

例えば、宮崎勤や麻原などは「責任能力あり」と判断された。宮崎勤は死体を食べた人だ。これがフランスなら(昔、ガールフレンドを殺しその肉を食べた日本人青年が精神病であるとして無罪になった事件を思い出すのだけど)、宮崎がフランス在住であったなら、同じく無罪になった可能性もあるのではないかしら。わたしが何となく不思議に感じているのは、田川氏のお怒りとは逆に日本では社会を騒がせた事件ではほとんどが(どんなに犯人の精神状態に問題があっても)責任能力あり、とされてきたのではないか、ということだ。それはどういう仕組みでそうなっているのだろう?つまりフランスと日本では何がどう違うのだろう?司法が世論に考慮する(頼る?)度合いが違うのだろうか?ここらへんにポイントがあるような気もするけど、わからない。