miyadai氏の話題のエッセイは

「あえてする日常へのコミットメント」へ──Mr.Children『シフクノオト」*1を読む。
ヘタな歌詞は「世界」から「社会」へと人を引き戻してしまうので(うんざりしていたが)、いま、ミスチルの成熟した歌詞に感動した、というようなことが美しい文章で書かれている。「あえてする日常肯定のポジティビティへの翻身」とは、現実を新たにつかみ直すことへの勧めだろうか。ヘタな歌詞というものには、「主語(固有の履歴を持つがゆえに固有の志向を持つ私)」がない、というあたりの展開はライプニッツの「述語は主語に含まれる」とかいう固有名の話しだろうか。
柄谷が、ライプニッツの問題点を指摘しながら、固有名の問題は交換(コミュニケーション)の問題に転化されると書いているのを読んだことがあるけど、ここらへんのところが、いろんなblogで批判されていた部分なのかしら?でも、それが問題になるような文章じゃないしね。一体この文章がどうして批判されたんだろう?