3人の人質事件

について心情的なことを言えば、わたしには反感/疑問と同情の両方があった。
反感や疑問とは、イラクのような危険な所で、組織的なネットワークや後ろ盾がない個人がどの様な活動が出来るのか?という「個人でイラクへ入った」という報道のヒトコトからイメージしたものと、人道支援やボランティアという行為を支えるのは、「相手の反応に左右され、遂行の邪魔にすらなりかねない善意」ではない、だろう、とわたしが常々思っていたあの「善意」だけで行動した人たちなんじゃないだろうか、という推測だ。
つまり、プロフェッショナルな情報、技術を持ったNGOやジャーナリストが、あえて危険地域に入るリスクを引き受けるという勇気ある行動や信念(善意)のようには見えず、彼らが無謀な独善家のように見えた、ということだ。(3人が前者であるかのようにイメージされたのなら、当然、自己責任論は起こらなかったと思う)。もちろん、ほんとうのところは、何一つわからない。すべてわたしの心情としてあった反感、疑問を生じさせたもとになった憶測を書いている。
わたしのようにそういうことを心情的に憶測した人は多かったのではないかしらね。それが「自己責任論」として一部の人たちのイデオロギー的対立や政治家に利用されることとなった、という気がする。
小泉政権が「自己責任論」にのっかった発言さえしなければ、問題はなかった、と思う。しかし、拘束のトラウマというより、これだけバッシングされれば、自己イメージが壊されて深刻な神経症になりそうな高遠さんたちに、政府はお金まで請求するってんだから・・ゆるせん、小泉政権