「罰ゲームがイヤで中二女子が自殺」

というニュース。
佐世保の女子児童の攻撃性が外に向けられたものなら、この生徒の攻撃性は自身に向かってしまった・・。人を殺したり、自分を殺したりしなければならないほど、追いつめられていたのだろうし、もし彼女たちが自分たちの苦痛、窮状を説明したならよほど説得力もあるに違いない、と思うが、客観的に見れば、たぶん陳腐で矮小な悩みに過ぎないはずだ。親にすればやりきれないなあ。あの子供たちは何故、「いやあ、世界は広いよ」と思えなかったのか?彼女たちの周りに張り巡らされていただろう教育的意向、権威を尊重し服従する彼女たちの精神が過度だった、ということはなかったのだろうか?たとえば「世界が広い」と発想を切り替えるためには、ある程度、親や教師の言うこと(教育的意向、権威)をバカバカしく思ったり、批判精神がなければ無理でしょう。教育的な秩序にあまりにも―良心的に―適応してしまうと小さな世界は耐え難いほどに彼女たちを抑圧していくだろうから。