ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインは「規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。」と言う。
柄谷は「私が規則を知っていると信じていても、それは他者が認めてくれないかぎり、私は実践的に知らないのである。ウィトゲンシュタインが規則に従う問題にかんして執拗に語ろうとしているのは、他者との関係の非対称性であり、あるいは、それを消去した思考への批判である。」と言う。それは、「ゆえに規則(形式)は事後的にみいだされる」と形式的に導き出せば、ウィトゲンシュタインの批判に絡め取られるような、(悶絶もんの)形式化できない哲学・・。
柄谷はデカルト的な懐疑(=ウィトゲンシュタイン)が、同一性をカラカラと突き崩す、と言っている(と、思う)。だからもう一度、「自己肯定」についていえば、それは作り上げる意志だ。プラトンに循環しているだろうか?デカルトの神の証明に近いだろうか?あー、頭がクリアーにならない・・。でも、それでも、それはっ、実践的にそうしないと生きがたい、のだから。