「子どもが見えない」9/8の続き


わたしも子どもの頃、描かされたことがある「木、家、人」の絵。かつてはそれらの絵に「物語性」が見られたが、最近は「記号的」に脈絡なくそれらが並べられた絵が多い−ポストモダンというコトバが脳裏に浮かんだせいで、このまとめはちょっと怪しいけど、笑−というような心理学者の話しも番組で紹介されていた。
又、親の期待に沿い続けることで苦しくなってしまうこどもが番組に出てくるのだが、わたしの古い感性で考えれば、子供と親(もしくは保護者、家族)とのトラブルは、ネグレクトをはじめいろんな形があるにせよ、単純に言えば、その親子のトラブルとは、こどもが社会化されていくときに抱える闇だろうと思う。子供がそれをコトバにすれば番組でやっていたように「おかあさんはほんとうのあたしをみてくれない」という悲痛な承認を求める叫びになるが、それは、親なり学校なり社会なりの価値観や雰囲気にこどもが沿っても沿っても絶え間なく子供を苦しめ沸き上がる違和感、、ズレのようなもので、言語化すれば、物語にしかならないような無意識的なもののような気がするのだ。だからこそ、解決が難しい・・。
そのズレとは、親、学校、社会の(いろんなことばでいわれるところの)雰囲気、価値観、信念、通念、慣習、規律etsにあがらう精神であって、それが形になれば非行、家庭内暴力、引きこもり、不登校。それは反革命の精神しょ。言っちゃえば、「い・や・だ」って破壊的なことだけど、問題は親も子も正しいってこと・・。
子供は、親を抱きしめることでしか負い目から自由になれない。思いやることでしか。相手を理解することでしか。そして、親が社会がなんといおうと後ろ指をさされようと好きなようにやればいいのだ。