『ジェンダー・トラブル』

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
ジュディス・バトラー
「 法(性のマトリクス)を何かに基盤づけられたもの、あるいは劇的に構造変換するものと捉えず、権力は反復される言説の中に、その法制機能と産出機能をもつ」というフーコーに添いながらバトラーは有数のフェミニズム理論を解剖していく。フーコー(の言説主義?)はフェミニズムの運動にとって諸刃の剣である。しかし、バトラーは(たぶん涙をのんで)、法−の前(クリステヴァ)も、法−の外(モニカ・ウィティッグ)も−その戦略、攪乱を認めない。

そして、エルキュリーヌ・バルバンのセックスの世界を「猫がおらず、猫のニヤニヤ笑いだけが充満する」と言ったフーコーをも、「解放主義的な性の政治(始原的な両性愛のエロスというマルクーゼの概念と隔たりがない)」法−の前のモデルとして批判するのである。フーコー自身の理論によって。

そしてバトラーは、「あらゆる新しい可能性を可能性として愛でることではなくて、すでに文化の領域のなかに存在しているけれども、文化的に理解不能とか、存在不能とされていた可能性を、記述しなおしていくことである」と力強い宣言をする。

ニヤニヤ笑いだけが充満する世界を審美的で感傷的だとして踏み越えて行こうとするバトラーがもちだしてくるキーワードは、パフォーマティブ、パロディ/行為、言説?ということらしい。

フーコーの「生きがたさに対する高笑い」は、バトラーの理解不能性を置換していく可能性−続編を読まなくちゃわからんけど−とは、すこし場所がズレている気がした・・。