動物的な死生観

ここ*1をみて思い出した。去年の9月に放送された「NHKスペシャル−子どもが見えない」を見終わったあたしは息子に聞いたんだ。笑いながら「小学生のころにね、死んだ人が生き返るなんて思ってなかったしょお?」って。息子は「うん。5.6年生のころ、輪廻転生について考えて結論出したから、ぼく。生き返らないと思ってたよ。」と答えたのであたしはイスから転げ落ちそうになった。当時、確かにあたしは彼がなにやら輪廻について書いた日記を読んでいたけど、気にもとめなかった。

6年生のときの日記を転載すると
20010808wed. 輪廻転生  
死んで、生まれて、また死んで、また生まれて・・・を繰り返す。つまり死=肉体の死であって、魂の死ではない、と言うことらしい。だから死ぬのも怖くない、そうは言っても皆死ぬことは怖いと思う。だいたい本当に輪廻転生があったとしても、全ての人間が繰り返されるとは望んでいないし、望んでいてもダメかもしれない(だって人類の数は変わっているしね)。それに、たとえ最初人間でも次もそうとは限らない。いきなし犬、とかね。百万回生きた猫だって最後死んだしね。まぁ今を生きるのが大切ということかな?今を精一杯生きれば輪廻転生なんていらない、って思うかもしれないよね。

息子は3才のころ、祖父のお葬式に出ているし、小学1.2年のときには可愛がっていた猫が死んで、みんなで庭に猫を埋めてお墓を作った。彼は死を現実に見ているはずなのだ。にもかかわらず、彼は小学5.6年のころに死というものを観念的に捉え直しているのである。死というものを観念的に捉える限り−息子はたまたま、生き返らない、と思ったようだけど−生き返ると考える子どもがいたって全然、不思議じゃない。不思議じゃないよ、息子の脆弱なとらえ方(転載の文)をみればさ。
でもって、あたしは思わず、「なにいってんの!死んだら何にもなくなるんだよ。チリになって土にかえってすべておわりなんだよ!魂なんてない!」と口走り、子どもがショックを受けた顔をしているので、もうやたら焦った・・のさ。というのもTVではこういうことは大事にはなさんばいかんと言ってるわけで、罪悪感が押し寄せたけど、なに、我に返れば、息子はもう高一なんだし、なーに、やってんだか、あたし。ってぐあいだったのさ。
しかしあたしの死生観はさ、あたしが4.5才のころ、母が答えた、まんまなんだよね・・。つまり「あたしはそういう風に思っているんだ」ってことでしかないんだよなあ。


続き(1/27)
こどもにとっては、あたしのような即物的な死生観なぞ耐え難いはずで、死(=生)について考えるときこどもは、意味や価値を前提として考えたいのだろう。だから魂という言葉は当然出てくるし、小学校の高学年や中学1年程度だと、生き返る、と考え及んだとしても全くおかしくないな、とあたしはつくづく思う。こどもにとって、死についてのドグマ的な環境が無い限り、こどもが死を悲しんだことがあったり、恐いと思ったりすることから出発して「死」について考えれば、あの統計結果(生き返る)はそらそーだ、と思う。
あたし(おとな)は何を期待していたんだろう?こどもが科学的なドグマに支配されていたら安心したんだろうか?

オウム事件のとき養老孟司氏がTVで言っていたことを思い出す。
自分の教え子(大学生)が、わたしのとこにかけつけてきて言うんです、「先生、教祖が息を止めて水中に1時間半もいれたんですよ!先生、是非、実験を見に来てください」と。わたしは学生たちに5分間酸素の供給が止まると脳細胞が死滅し始める、と教えているのにもかかわらず。