嗤う日本の「ナショナリズム」

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
「歴史を理念からみる」という−ヘーゲル的−構造を持つ本だったと思う。
しかし、その歴史を駆動するかのように見える理念は、北田暁大氏によれば「否定(反省)」の理念である。なるほど、歴史は終わらず、「非歴史的」という「物語」が取って代わっただけなのかもしれない。*1

終章に「ローティ的アイロニーと対応する戦術を打ち出す宮台氏」についての批判がある。そこをながめながら、宮台氏と北田氏の違いは煎じ詰めると「民主主義」と「自由主義」の対立ではないかな、と考えた。「ロマン主義を成熟させていくための自由主義」と言うのだから。*2

「それでもなお絶望せずに思想を語り続けること」
霧がはれていくかのような言葉でもあり、そして胸にぐっとくることば。

*1:「歴史の終焉」は形を変えて何度でも登場する。「こうなるしかなかった」という「必然の肯定」として歴史を見るならば。歴史を終わりから見ることによって北田氏が見いだす「否定(反省)」の理念(=目的)は、吐き気がするほど頽落なのだ。その頽落とは、非歴史的「終焉の歴史」を駆動する「否定(反省)」の理念が−ヘーゲルに回収されるとき−肯定されざるを得ないからである。

*2:「民主主義」と「自由主義」の対立はいろんな言葉で変奏される。民主主義が同質性をアテにする以上での「排除」と自由主義のもつ「相対性」。それは「個と全体」というような根本的な問題に帰すると思う。