『靖国問題』高橋哲哉(2)

charis氏は結論部で「戦没者の追悼の問題は、結局は、我々自身が戦争とどのように向き合うかに依存している。」と書かれている。
あたしは「戦争」とどの様に向き合えばいいのだろう。(1)のコメント欄に書いたことを基に考えてみる。

この本を読みながら、対照的な『弔いの哲学』(小泉義之)を思い出していました。うかつにも売ってしまったのだけど。やっぱり、高橋氏がさんざ書いてはった政治の動向いかんによっては、「戦争の犠牲者」への追悼が簡単に「第二の靖国」に陥ってしまうだろう、という、、それをくい止めるということを考えると、です。現在の日本人のほとんどは戦争の当事者じゃなくて、罪はないわけで、そうしたあたしでも「戦争の犠牲者」を悲しむのは人情として当たり前のとこがありますけど、「戦争の犠牲者」をもう二度と産み出さないんだ、戦って人を殺さないんだということには、実際には罪が無くても、(たぶん)小泉氏が嫌う形而上的な罪を喚起する必要があり、武力行使イデオロギーに対抗出来るのは「罪の意識」か「良心」というものなのじゃないかなあ、と。

「戦争の犠牲者」に対する悲しみや痛みは、武力行使イデオロギーを乗り越えられるのだろうか?
武力が行使されるとき、人は逆らいがたい崇高さや正義の理念に支配されているように思う。こうした理性的なものに対抗出来るのは、同じく理性であるところの罪の意識や良心しかありえないのではないか?・・ここがあたしの疑問。

しかし、「罪」も「歴史」もあたしの中にしか存在しないとしたら・・。「私・今・そして神」は何かを教えてくれそうな気がする。あたしは『弔いの哲学』にうまく納得できなかった。(ドゥルーズがわからないってこともあるだけど)。

弔いの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)『弔いの哲学』(小泉義之)を読んだ。うーん・・。小泉氏が言う「誰かの死と誰かの生の断絶を思い知ることが弔うことである」というのは、あたしの下世話な(巷の思考)でも十分イメージできる。(下世話な巷の思考は哲学と違うんだろうけど。)。個人的な戒めとしてはすでに世間的にあると思う。こうした個人的な倫理が、たえば、9.11のテロのような治安の危機感を高め、アフガン攻撃に突っ走ったようなことに対して、有効であるかもしれない。けれど、あきらめたような政治にたいする無関心を肯定することになりかねないと思う。小泉氏は他人もいないけど自我すらも弱いような雰囲気を肯定してしまうと感じる。確かにそれはそれで面白い可能性もあるに違いないとは思うけど、あたしは、関係の束であるからこその個人がその関係の束を解きほぐし知ろうし(思い知った)あと、その次の倫理があるだろうと思う。関係の束であるからこその倫理が。

あぁっ、うぅ、整理にならにゃい。