『なぜ人を殺してはいけないのか?』

永井均氏の本を探していたあたしは、小泉義之氏との対談本を発見。
「対談本なら、分かり易く書いてるんじゃない?」と思ったわけ。うん。おもしろかった!二人の対談自体は短くて、2章と3章、それぞれが両氏の書き下ろし。なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜)
永井氏はいう−たとえば「人を殺してはいけない」という社会契約を結んだとき、人が暗黙に選択している(したい)のは、本当は「一般に人は人を殺してはいけないが、わたしだけは人を殺してもよい」というものではないかと。「人を殺してはいけない」という規範は、「人は殺される」−の受容を前提にしているわけで、そこから展開される「独我論の伝達の問題」は面白い。

彼は「人を殺してはいけない」という社会契約のようなものは、不可能な規範なのかもしれない、という。つまり、「わたし」が「他人」の中に入り込むがごとくの(=だからわたしは君を殺してはならない)という視点の想定*1は、実は(すべてが「わたし」の中にある)わたしの視点(=わたしだけは人を殺してもよい)に裏切られ続けるだろう。ということかな。

小泉氏は「ひとが殺される」という出来事から一切の神話を拒否しようと力説する。

あたしはこの本を読みながら、nhkスペシャルを思い出していたんだけど、少年院のドキュメント。そこで少年−我が子である赤ん坊を殺してしまった−は、再教育され、(罪の意識による)良心、超自我のようなものを獲得していく。
確かにあたしは見ていて複雑な気持ちになった・・。けれど、それ以外にどの様な「しつけかた」があるのだろう・・。「善なる嘘」を語らずして。あたしにとっての「善なる嘘」は、社会防衛的な説教なんかじゃなくて、自分の生きがたさゆえ、というべきか。

*1:永井氏は「人を殺してはいけない」というといき、「わたし」が「他人」になりかわるがごときの視点が想定されている、と言ってると思う。