おのださん(2)

「あたしは強く賢くなりたい」と思っていた、ことに今頃になって気がつき、絶句。


小野田さんは「強い」。その「強さ」とは、いわば「生きる力の強度」。それは、15才のとき家を出て中国へ行ったこと、50才過ぎてブラジルで牧場経営をはじめたこと。80才を過ぎて、日本とブラジルを往復しパソに向かい原稿を書き講演をし、子どもたちのためにつくそうとしていること。そうした彼の有様を貫いている外へ向かう精神。

下の(1)のエントリのコメントにid:yagianさんが書かれたこと。小野田さんの入隊を前提に話されています。

何か超越的な価値観に帰依することなく、たった一人の人間が裸で自立することは難しいように思います。
主体を意味するsubjectという言葉が、従属するという意味も持っています。例えば、神に帰依することで、個人が成り立つ。
小野田さんの場合、公への奉仕・帰依が、強い個人を成立させているのかと。

そうですよね。ところが、生の小野田さんを見てしまうと、少しズレを感じました。

彼ははじめから公の中で生き、自分の「生きる力の強度」に忠実だった、かのような気がしました。
個人的な享楽(欲望)を置いて、軍隊に自分を賭していくとき、その押さえ込んだ意志が大きいほど、彼は強い。そんな感じです。

なぜ、そんな些細なズレの感じに拘るのかというと、小野田さんが生きた時代と、いまわたしが生きている時代、個々人の心のあり方に違いはないのではないか、と思うからです。

わたしも社会という公のなかでいき、自分の欲望に忠実に生きています。ただ、ものすごく大きく違うと思うところがあります。たとえば、こどもたちです。家庭内暴力をふるったあげく親を殺してしまったり、逆に親に殺されてしまったり。
家庭内暴力をふるったり、親を殺す、という子どもは、強い。とても強い。*115才で中国へ渡った小野田さんと同じくらい強いんだとわたしは思いました。
ただ、その強さ、生きる力が小野田さんのように外に向かってのびていかない。力が全て内に向かってひたすら自分を苦しめ押し殺そうとしているかのようです。

この違いはなんなのでしょう。戦前よりはずっと自由なはずの社会のなかにあって。「死の欲動」が文明論なら納得してしまうところですが、しかし、重い十字架は9条が担ってきました。

迷走中・・。

*1:たとえば、暴力をふるってしまう、その「衝動」つまり「生きる力」についてだけ、他は一切考慮ぜず、「強さ」として取り出して考えてます。