葡萄園の労働者

ここを読んで連想したこと。*1

むかし、5才と11才の息子たちが仕事を手伝ってくれたので、お小遣いをあげたことがあった。兄のほうは役に立ったけど、弟は、ほとんど遊んでいた。あのときあたしは二人におんなじだけのお小遣いをあげた。どうしてそうしたのかというと、お手伝いをしてくれたふたりがとてもとても可愛かったから、としかいいようがない。いまから考えれば、ここには、アリストテレスの「配分の正義」、「能力主義」がない。お駄賃を手にした二人はニコニコして嬉しそうだった。彼らはまだ我が強くなかった。似たような経験を持つ母親は多いだろうなと思う。

世の中は能力主義の原理でしかまわっていかないものかもしれない。けれど、もし自分が怪我をして障害をおったなら、重労働をしながらも賃金が安く我が子が飢え死にするような国に産まれたなら、という想像が、福祉や貧国への援助という政治感覚に結実するとき、根底にあるのは、幼い頃のお手伝いの思い出のような、配分の正義とは違う感覚、(それはやっぱりキリストがいうように愛というものでしょうが)、あたしはいま、そうゆうことを思い出したい。