「マルクスと息子たち/デリダの遺言(2)」

マルクスと息子たち
デリダの遺言』*1仲正昌樹氏がなぜ「生き生き」という言葉を使うのか、その肝心なところがあたしはわからなかった。そして、なぜ高橋氏、柄谷氏を批判しなければならないのか、あたしはわからなかった・・。
で、昨日、『マルクスと息子たち』という本を手に入れた。

マルクスは、亡霊的シミュラークルに対する自らの批判あるいは悪魔祓いを、存在論の上に基礎づけたいと思い続ける」とデリダはいう。(ここでいう亡霊とは共産主義のことである)。
マルクスには、二つのパースペクティヴ、憑在論的な(価値形態論?)と存在論的な(労働価値説)が混在しており、訳者の國分功一郎氏によれば、そこからデリダマルクス読解を始めるのだが、「その第一の課題は、存在論が覆い隠している亡霊的な契機を明るみに出すこと、そして、諸関係の効果という「起源」を隠蔽するとともに、実体的本質なり存在なり現前なりを捏造する存在論のふるまいを告発すること」にあるという。

だから、仲正氏がいう「生き生き」とは「亡霊的な契機を覆い隠す存在論」の現前のふるまいのことなんだろう、と思う。
ただ、あたしはこの「亡霊」について「統制的理念」ということばが浮かんだのだけど、デリダはそれ(統制的理念)に賛成していない、と書いてある。
むつかしい・・。
でもって、高橋氏や柄谷氏は「存在論の欲望」に屈したことになるのだろうか・・?うぅ。わからん。