自己責任(2)

ここを読んだ。→ララビアータ:『魔笛』について
「自己責任」ということばをゴミにしようとする、のは、「大真面目な市民道徳の脅し」を叩きたい、ってことがあるのかなあ、とふとおもった次第。
だけど、精神構造を精神分析的に捉える以上は「大真面目な市民道徳(象徴界)」は以前としてどちらの側にとっても前提になってしまうよなあ、とおもう。

だめだ、混乱してる。_| ̄|○

疑問を整理。

たとえば、あたしが社会的な空気、規範といった多種多様な、たとえば、「自己責任」だの「イスラムのスカーフ(戒律)」だの「スローライフ」だの「定説です(あ、もう捕まっちゃったか)」だの「自立」だの「男尊女卑」だの、そうしたなにかと葛藤を起こしたとき、その葛藤のタネである圧迫を取り除くために一個一個、叩いていくのは効果的なんだろうか?「自由」とか「多様なものの共存」とかどうなっちゃうんだろ?
「主体」の問題を社会性つうか、規範つうか、社会の空気を叩いて解決するのだろうか?
自我が「社会の欲望」なら、、、うぅ、精神分析的な3層構造を理解していないし、政治的な方向性も絡んで考えて、もう二進も三進もいかん。