『読む哲学事典』(2)/女性のうつ

一者と実在性

言語は構造主義言語学が明らかにしたように、対比と弁別特性の対称性を本質とするが、言語が表現する実在には、非存在との非対称性がある。ギリシャ人は、言語と存在のこの深淵を常に意識していた。(p39)

「女性のうつ」のエントリに「・・・自分を肯定して愛することができれば、きっと・・。でも、絶望も神経症も知らないだろう人から「そうゆうナルシストは最低だよ」と言われたことがある・・。」と書いた。田島氏の『読む哲学事典』を読んでいるとこなので、メモがてら少しずつお勉強。

あたしがもっている神経症から/を経て、その精神状態とゆうものを「実在論的」に描けば(ホントか?笑)、まずコテコテに精神のバランスが崩れているわけで、それは、「意図(理想や幻想や目的や規範)」とゆうものにがんじがらめになっていて、それが(ダメな)自分をますます自己攻撃して息があがっちゃっている・・感じ、で、立ち現れるその症状はバランスを取り戻そうとしているからだ、と。ゆうことは可能かと。
神経症の苦しみは、たとえば、「偉い人」から、「お前ほど無能なものはいない、くずみたいなヤツだな、あれもダメ、これもダメ、etc」と批判され続け、その批判を深刻にきっちり受け止め、反省し、なんとか頑張ろうとあがいている状態、それが適当な反論や切り替えたりの気分転換を許さずに自分を追い込み泥沼のようになった苦しさに少し、近いかも・・。(遠い、といわれても肯きますが・・。)

あたしのばあいは、期待せず、あきらめ、ダメな自分を受け入れる、とゆうように己を「肯定」してやれたのは、実は、環境を変えて、仕事で少しずつ自信を取り戻したことによります。そのうえで、自己肯定ができたので・・それはつまり悲しいかなあたしの精神的構造−という言葉があったとして−は、やはり「実在論的理解」と相変わらず親和的なのだとおもわれます。「意味と真理を求める我々自身の暗い欲望(p42)」にあたしは翻弄され続けているわけです。