「問われる教師」とはなんぞや?

フーコーが規律訓練型の装置として学校、病院、軍隊についていっていて、このなじみ深い学校や病院の制度が壊れかけているのかなとおもう。
教師や医師(にそなわっていただろう)、その目に見えぬ権威を意識するとき、自発的に自分を律する内面が生まれる(というようないいかをしても、イイかな・・?)、しかし、いまや権威者に対する過大な期待は容易に不信に変わり、様々な軋轢や要求におおわれて(問われて)いるらしい。
これは教師や医師が変わったわけではなく*1、装置が機能しなくなった、ということなんだろう。なぜなんだろう?そもそも小中学校段階や入院生活には我慢することが多い。個人主義てき人生謳歌の風潮?(笑)は、そうゆうものにあきあきしだしたってことかな?ここらくらいまでは、あたしてきには、イイじゃん、くらいに思うのだけど、でもどうかわっていくのかと考えるとはなはだ心許ないね。
教育は国家という枠組みを考えねばならず、政治理念の問題であるんだろうし、でも日本(官僚)は、各国の政策の良いこと取りで済ます貯水池みたいらしいので、いやあ、どうなっていくんだろう・・?

こどもには「大学は自由だから、それまでの辛抱だから」と言ってきたあたしだけど、よかった、Rも高校卒業だし。その時期が過ぎて。ほんとに。

*1:むしろ、優秀な教師や医者が増えたような気がするくらいだよ、あたしには。