フェミニズム/ドメステックバイオレンス

先週、「ラスト フレンズ」*1をリアルタイムで見た。DV(ドメステックバイオレンス)に興味を持ってあちゃこちゃ検索。
http://www.city.sakai.osaka.jp/city/info/_danjyo/dv.html」というページを見た。


「女性に対する暴力 」は、ドメスティック・バイオレンス(DV)をはじめ、性犯罪、買春、付きまとい(ストーカー行為)、セクシュアル・ハラスメントなどさまざまです。これらの暴力に共通しているのは、性別役割分担意識やジェンダーを背景に、女性の基本的人権を侵害していることです。
とある。つまり、「暴力」の社会的な要因として、性別役割分担意識の「強さ」や女性に対する「不平等」などといった文化的な背景を問題にしているのである。

でもなんか違和感があるんである・・。
つまり、暴力を受けたときに、すぐ、行動を起こせない、とか、すぐ、逃げない、とか、すぐ、回りが理解しないとか、被害者であり続ける原因として、フェミ的な分析は有効だし、その通りのような気がするけど、「暴力」の社会的な要因としては、フェミの分析はあてはまらないんじゃないかと、おもう(単なるカンだけど)・・。

あたしは、子どもが幼児の頃、彼の頭をゲンコツでボガッと殴ったことがある。今から思うと、些細なことで殴ったんである。で、その時の心情を思い出すに、あたしは、あるどっしょもない不全感に捕らわれていて、彼の行動に対して、いたく失望し、いたく悲しみ、ボカッとやった・・とおもう。今でも、悪いと思っていない・・。
たぶん、この不全感が、病んでいるモノなのであって、不思議なほど怒りが他罰的に他者に向かう。

社会病理的な問題は、時とともに変遷しているだろうし、これは、あたしの単なる空想物語でしかないけど、例えば、かつてフロイトが、人間の攻撃性が内向して超自我の良心になる、というようなことを言っていたと思うんだけど、それがいま、規律社会がどんどんゆるみ、攻撃性が直に他に向かってしまうような、病んだ不全感のような何かが、出現しているのではないか?規律社会の終わりを見つめていたフーコーが晩年に突如、「自律」ということを言い出したのは、そこらへんと関わりはないだろうか?あたしは、もうあたし自身を自分で律することしか、あり得ないのではないか。

秋葉原の加藤容疑者も、新聞によると、「社会が悪い」とゆっているそうで、彼は自分が悪いとは思っていないらしい。彼を集団の一員とさせたはずの規律社会はすでにゆるみ、個の尊重や自立が求められることによる彼の不全感は、ささいな失望と絶望による怒りを自らに取り込むことができない。

*1:ルカとタケルがむっちゃんこイイんだよ!