暗い時代の人間性について(ハンナ・アーレント)

暗い時代の人間性についてわたしは何故「多元性が平等と相容れない」という文言に混乱したのか?この本を読んでなんとかそのへんに道筋をつけたいわけです。

私の住む地方では、アイヌ人は先住民族であるとして、その権利を主張する動きがある。わたしは子どもの頃、アイヌ人のアニミズム的な宗教観が好きだった。わたしは彼らの伝統文化に敬意を持つように教えられた。わたしには、、彼らにとって同化政策がどんなに過酷なものだったか、到底、わからない。けれど、それでもなお、ルソーの「普遍民主主義」→同一性(同化政策)が、平等を目指す、という点において、ダメだとは、わたしは思っていないのだ。

「同じ人間なんだ」と言わずに「ドイツ人とユダヤ人、そして友人だ」と言わねばならない。この時、アーレントはそこに可能性の地平を開く。それは冷静で高潔なものだ。そこには、「虚偽の罪責コンプレックスも虚偽の優越感も劣等感もない」。

「同じ人間なんだ」というイデオロギーの根幹から引き出されるのは「同情」であるが、それは、親密な私的領域に人を隠棲させ、現実に直面させない。

「同じ人間なんだ」というイデオロギーは、(仲正昌樹氏の本を読んできたので)理想としてのシンボル(といっていいと思うが)であり、その同一化の要請が、全体主義的な悪を為す、ということなのだろう。とおもう。

たぶん、今、この時代は、多元性という考えを必要としているのだろう。下流で生きるわたしは、食べることに困らない限り、そのルサンチマンは、ささやかなしあわせを見つけることで解消され、又は、上昇志向という健気さを持つかもしれない。
このとき、そのルサンチマンが「同じ人間なんだ」という同一性にあるならば、わたしは、それで、いいじゃないか、と思う。
政治は、ルソー的な「普遍民主主義=平等」という理想をもちながら、しかし、現実の社会は、多元性に満ちている。何もかもがそれぞれに違う、ということなど、誰でも分かっていることではないのか?わたしは、その違いに意味を見いだせない無意味病だけれども。

もちろんわたしのこれらの情動を、アーレントは叩いているのだが・・。


歴史の中には、公共性の空間が暗くなり、世界の永続性が疑わしくなって、その結果、人間たちが、自らの生活の利益と私的自由を適切に考慮にいれてくれることしか政治に求めないことが当たり前になってしまう時代があります。そのような時代を「暗い時代Finstere Zeiten」と呼ぶことには一定の正当性があるでしょう。
しかし、アーレントさん、あなたの求めた多元性とは、そうゆうものではないのか?(つまりルール オブ ローの政治的、帰結としての)。←参考;『二つの民主主義』『民主主義という錯覚』

むしろ、アーレントの言う、「友情」「多数派の問題」などを政治手法的に解決してゆこうとすると、限りなくルソー的普遍民主主義に近づいてゆくのではないか。