「生きづらさ」について(雨宮処凛・萱野稔人)

「生きづらさ」について (光文社新書)衝撃を受けました・・茫然。
わたしは、貧乏を知っていますが、この本に書かれているような貧困というものをまったく知らない・・。

わたし自身、何処にも属していない感があるのだけれど、それはあくまで内面的なことであって、処凛さんがおっしゃっているような「属する場がない」ということは想像を超えている・・。

わたしは、共同体的なる親密さを煩わしく感じたり嫌いだと思ったりする程度には共同体の中で守られてきたのだなと、再認識した次第・・。

処凛さんは、「競争の激しい圧力」ということもおっしゃっていてこれも印象的。
そして運動をもっと年長者にも理解して応援してもらいたいと。

なるほど、それには上の二つの点で難しいだろうなと思う。どれくらい年長かはわからないけど、例えば、60代の彼なら、若い頃に、貧乏で出稼ぎに出て、殴られたり馬鹿にされたりというような劣悪な労働環境で、自己否定や、恵まれた者達へのルサンチマンも抱えたかもしれませんけど、共同体的なしがらみはまだ強く、出稼ぎに出るということは、田舎の家族を食べさせるためだろうし、それは、処凛さんのいうような共同体的関係が摩耗したかのような属する場がない自己否定とは、決定的に違う。
そしてたぶん、彼にとって、「競争」とは、得体の知れない圧力ではなく「頑張れば豊かになれるんだ」という希望だっただろうと思う。

この二つの溝は大きい・・。

わたしは「競争の激しい圧力」からとっくに落ちているし、それにこだわる気もない。

人は様々である。能力の高い者もいれば、低い者もいる。たまたま、そう生まれたのだ。そこに優劣はなく違いがあるだけだ。
勝ち負けではなく、自分に合う生き方をすればいい。それが自己肯定だ。

と、思ってきた・・。しかし、これは、共同体的な関係や親密さの中で考えていることなんだと、気づいた・・。衝撃である。

(もし、社会階層が上、中、下となるものならば)、下流のわたしのような生活からさえも、さらにはじかれた人々がいるってことで、なるほど、わたしのようなごたくを聞けば、メンヘラーにだってなるってもんだ。

処凛さんの呼びかけには、既存の親密さや安心を壊すものがある、ような気がする。おもしろい。