教養/自由

charis氏(charisの美学日誌)の8/4付けから始まる一連の書評(タイトル、「濱口桂一郎『新しい労働社会』」)、及び、そのやり取りが興味深い。

濱口桂一郎という学者さんのブログを読むと、経済的利害関係的にばっさばっさと切れ味鋭く分析なさっていて、「おお!全部、正しい!」と見えるのだけど、charis氏は、「経済的利害関係」だけでは人間たりえないのではないか、とおっしゃっている。

人が「一律の駒のように動くと想定されている社会」を分析対象にする学問と、「自由であろうと試みる」学問領域。なんだか、分が悪いようにも思うけど、でも、世の中では、やはり、経済的利害関心的な分析や考察から、突出してはみ出してくる出来事が起こる。

少数の人を除いてみんな、右へならえ、してしまったルワンダの虐殺、拉致問題における政策の優先順位、行儀の悪いロシア人を閉め出すために「外国人お断り」の張り紙を出すことになった銭湯で、それまで常連だった日本国籍を持つ外国人を、上からの命令だからと、入浴させなかった従業員の一件、

これらの問題は「自由であろうと試みる」ことができなければ、考えることができない。

ついでに「教養と実学」についてわたしの感想。

これは、ドイツのような2本立てがいいと思う。本来の教養を学ぶ大学と、マイスター養成の職業大学みたいな。でも職業大学でも教養学科は入れるべき。

つまり、エリートと大衆でいいと思う。ただ、じゃあ、つまり、教養のないわたしのような者は、公的な判断に参加するのはムダなのか?
これがさ、わたしはそーでもないんじゃないかなぁ、とちょっと思う。
芸術とか、映画でもマンガでも小説でもいいし、そして、仕事で人間関係にもまれることとか、そうゆうことが、たぶん、わたしに、判断の力強さを与え、冷静さを与えてくれる、ような、気も、する。もちろん、趣味で読む哲学入門書とかもあるわけだし。
だから、専門家同士が議論をして、投票するとかなって、つまりそれを判断するとなると、わたしのような者であっても、良い部分も、たぶん、あると思うわけ。
マスコミの影響とかは除いて考えているんだけどね。