『Nの肖像』仲正昌樹
仲正氏にとって「統一教会とはなんだったのか」、教会で過ごした日々を振り返りながら、語られてゆく。
彼が言う「実存的不安」、「司牧権力」と「承認」問題は、切実な人も多かろうなあ。
この枠組みで言うと、わたしはあのとき恋愛に逃げたんだな、と読みながら思う。
一つ、面白かったのは、「承認と依存」のはなし。このブログ書きも、「承認されたいんだな、わたしは。」と思っていたのだけど、それが「依存である」というのは、言われてみれば、なるほどなあ、と。
後、思ったのは、統一教会の教義がしっかりとした理論立てになっているらしいこと。
そうしたものにのめり込むことができる人は、理論が完璧で美しい、ということに惚れるんじゃないだろうか。自分の抱えている問題とイメージが合うだけじゃなくて、理論に隙がないと思えたときスッと受け入れてしまうというか、何か特徴があるような気がする。
うまく言えないんだけど、(理論→正しい→理想)、理想に向かってみんなで戦うぞ、みたいなとき、なんていうか、「みんな違う」のにどうするんだとか思わない、つうか、、、頭の良いリーダータイプは、全体のなかで自分が消されちゃうようなことへの恐れなんてないんだろうしなあ。
あ。思い出した!仲正氏のドゥルシラ・コーネルとかアーレントとか。そっかあ、そこへ続くのね。
- 作者: 仲正昌樹
- 出版社/メーカー: 双風舎
- 発売日: 2009/08/25
- メディア: 単行本
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「贋作者」
昨日、劇団千年王国(演出 橋口幸絵)の公演を見に行ってきた。
お話は、時代背景は(パンフには名前しか載ってないし)今一つ、わからなくて、
タウトの名前が出てきたと思うし、鹿鳴館のパーティらしき話題もあったし、
草分け的な女性新聞記者も出てきたし、でも、1800年代後半が妥当かな・・・?
でもって、主人公の贋次郎は浮世絵師で贋作を作っていて、兄の清一郎は狩野派?の伝統を継承しようとしていて、あれやこれや、っつう。
でも、「アウラ」なんてこと考えると、狩野派って、晩年は職業絵師集団で個人の芸術的表出はno!だったし、そうすると、贋作者と伝統芸術との対立ってのも、なんか、わからんくなるし。
でもあたしとしては、「シミュラクル」の真っただ中で苦闘する贋次郎をみながら、江藤淳の「戦後の日本人は豊かになりたかっただけじゃないか」という言葉を思い出しました。
そう、多くの庶民は、日本の文化伝統に縛られようが、それが破壊されようが、あたしのように、あっけらかんと(「動物化」)、生きてきたんだよな、と。
清一郎という役に、凄みのようなものがあれば、もっと、深みのある劇になったんじゃないかなあ、とか思ったよ。
あと、演出も舞台美術もかっこよかった!役者もみんな上手かった。よかった。特に、主役の立川佳吾に魅力があって、最後までひっぱられた。(地方劇団の公演で)、役者の名前を検索したのは始めて。スターって大事だよな、とかおもう。まあ、劇団的エリート意識は、そうゆうもの認めないんだろうけど。
恋する松潤「夏の恋は虹色に輝く」(3)
「夏の」第3話を見た。よかったぁぁぁぁぁぁあ!(オン−タイムで見てるのは、これと「熱海」と2つなんだけど、2つともあたり!)
「夏の」の見所はあたし的には、草食系男子(まあ、恋愛にあっさりしてるくらいの意味。くらいで)の、恋の進め方とは?みたいなことなんだけど、前から、女に対して、粘らないつうか、空気見過ぎなせいなのか、優しいんだけど、なんだかなあ、とおもっていて、そらあ、本読めば、恋愛は欠如aである(ホントか?)とか、「愛してる」なんて、哲学的には証明不可能だぁ、とかさ、そんなことが今どきの男子の頭をかすめてたとしても、恋してドキドキしたりせつないなあ、くらいのことは永遠になくならんしょぉ・・。んで、彼らに女をつかまえてもらうにはどぉ、言ったらイイのかなあ、ってちょっとおもってて・・。
んで、こちらのドラマの大雅くんですが、昨日は、詩織さんに2回も告白しました!『映画ジャンル論』(加藤幹郎)という本に「スクリューボール・コメディ」という括りがあって、「赤ちゃん教育」等々の映画をいうわけですが、つまり、相手の男性が確固たる生活スタイルに閉じこもっていて女なんて面倒とおもっていて、ところがそこにちょっとぶっとんだ女が真っ直ぐに男にせまっていくわけで、男は少しずつその安定して安全な世界を崩されていくつうラブコメなんですが、「夏の」はその男女逆転パターン的だと。
で、草食男子には、(触れなば落ちんみたいな女はそもそも、草食系を好きじゃなかろう、というあたしの独断があるんだけど)、友達にしかなれないような自分の確固とした生活世界をもっているような女性があうだろうな、と・・まあ、思い込み以外のなにものでもありませんが。
で、本家本元のキャサリン・ヘプバーンは、真っ直ぐに進む力を感じさせて、ケーリー・グラントは、確固としているけど軽妙・・という絶妙なコンビなのだけど、加藤氏の本では、このジャンルが廃れたことを時代背景で説明しているところがあるけど、でも、あたしは、ケーリーさんの確固としてかつ軽妙という軽業師みたいなバランスの役者さんが以後、出てこなかったからじゃないのかなあ、とかってのはどうだろう・・?
んでもって、だから、あんたたち(誰に言ってるかはナイショ)、「これはちょっと、無理・・」つう自立した堅牢な女性に対して、大雅くんみたいに、真っ直ぐな目で「すきだ」と言いなさい。