郊外論から

ヘルシー女子大生さん*1が1/19*2、22*3あたりで「入れ替え可能な郊外」の話しをされている。有名な知識人らしいのだけど、地方の田舎町でずっと暮らしてきたあたしには彼女の「入れ替え可能性とか臭い」の話しは違和感というか引っかかってしょうがない。宮台真司の『幻の郊外』も読んでないし、彼女が書いておられることもきちんと理解しているとは言い難いのだけど、感想を言っちゃえば、つまり、入れ替え可能な郊外って「現実とは?」って話しだよね。
まず「入れ替え可能な臭いの薄い郊外」って言説自体がフェイクであって、そういう「現実(真実)」というものは個々人が事後的に言及して(創って)いくものだ、とあたしも考える。
大林宣彦尾道だってその当時、その現実の中で生きていた人にとって「臭い」がある町ではなかったかもしれない。何故ならその当時の人々は明治や大正にこそ「本当の臭い」があると言ったかもしれなかった。(笑)。

町が日本各地で均一化(郊外化)しているという「入れ替え可能」な空間は物質的な自由と平等が安価に実現されたことであり、本来、例えば、「郊外にまつわる言説」というものはそうした(安価な自由と平等を目指してきた)近代的主体にメスを入れ新たなものの見方の提供であるべきだろうけど、一体、メスを入れたり打ち壊したりしなければならない主体ってどこにあるの?
郊外話はどこまでたどってもフェイクでしかないだろうに、ノスタルジックな話しにしかなんないのでは?あたしの郷愁は均一な町がダサい感じなのは同感するから、行政が町の建築土木に規制をかけて美しい町作りをすればいい。

己の記憶が強固でなくイキイキとした実感がなかったのはおのれ自身のハナシのはずだ。郊外の風景を持ち出す時点で主体は蒸発してる。