降りる自由って

例えばあたしがホームレスになったとき、あたしは自身が「降りたんだ」とは言わずに「ちょっと生き方を変えたんだ」と言いたいのだ。社会はそうゆう「変えることが出来る」自由がある、と思いたい。もしあたしが抑圧的な男と暮らしていたなら、お互いのリズムが合う方向に少しずつ変わっていけるのだと信じたい。一生懸命、あたしはその様に生きようと思い続けるしかないではないか。そうした倫理的な一点を失えば共同体との線は切れてしまう。共生とは交通があるところにこそ成り立つのではないか。(「対立する自由主義と民主主義(シュミット)」が補い合ってやっていくのだとして、その原点のイメージ(幻想)としての米英。)