お返事(その2)

結局のところ、田吾作が言葉を持つことなどほんとうに知識人は望んでいるのだろうか?高卒の田舎町暮らしで、小さいときから理屈っぽいことを考えるのが好きだったけど、子供を持って生まれて初めて社会に興味を持ち、知識人の言葉をネットで覚えた年寄りです、あたしは。しかし、うだつを(民度を)あげるって、どういうことだったんだろう?と今、わかんなくなったよ。知識人は仲間と学生としか話さない。もっともで、だってある程度は通じる言葉を持っていない者の割り込み(質問疑問)はほんとに迷惑だろうと端から見ていて思った。ボランティアで知の仕事をしているわけじゃないんだしね。で、うだつや民度をあげて、勇気を出して自分の感想文にリンクをつける。さもしいですが、それは果敢なんですよ。自覚的でやっかいな女達が言葉を持って語れば面白いしょ!と思っていたし、それが民度があがることかと思ってもいたけどなあ。疑問というのはとても現実的な問題から発生したものばかりなんだけど、机上の空論とよく言われたな。不思議だった。たぶん、自分の文章(ことば)や、なにかあたしには分からないものに問題があったんだろう。へこむへこむ・・。


「ねえ、あの日の丸ふって見送ってるのってゾッとしないか?」と夫は、TVの自衛隊員出発のニュースを見ながら言いました。昔の出征兵士のイメージと重なって背筋に寒いものがほんとーに走ります。夫は「戦争反対だ!」と言います。そうだね、とお返事はするもののあたしは内心、不思議です。TVでは戦争に行くとは言いません。復興支援に行くと言ってます。ということは国際協力ということらしく、今は、安全保障を広義に捉えるならば、食料、安全、環境問題、どれをとっても国際主義的に考えざるを得ないってことかしら?それとも、政府はなーんにも考えて無くて、ただ、アメリカの言うことを聞いているだけでしょうか?どっちの路線であってもイラクへの自衛隊派遣に反対するということは、アメリカへの従属かまたは国際主義路線でないってことでしょうか?ならば、それら以外の道とはなんなんでしょう?あ。これは「近代の超克」のアポリアだ(またまた、素人がこんな言葉つかってよー!)、と思いました。たぶん、民度が低い有象無象のあたしのような市民はこれくらいのことを考えています。


−諸関係の結節点にすぎない主体を、それが実体であるかのようにみなす近代的・ブルジョア的主体の幻想を否定したとき「責任」はどのようにありうるのか。−(柄谷)
それは「自由でアレ」と言うわたしが、引き受ける(ざるを得ない)べき、責任。そこにあるのは「自由であれ」という命令。止めようか、降りようか、拘泥しているのなら、それは「自由でアレ」という命令に背いている。「自由でアレ」と言うときは、ホッとする責任の消去はないし、道徳的な責任の追及があるわけでもないし、事実だけに対する攻撃があるわけでもない、主体の責任だ。その命令は柄谷が言うように優しい幸せに満ちたものではないだろう。