「降りる自由」って

■■■雪がどしゃどしゃ降る中、息子に車の運転を教えた。ちかれた・・。車の中の息子とわたしはひたすらパニクっており、この次、、は、ピアフの「暗い日曜日」なんぞかけておちつくべ。
■■■「降りる自由」の話しを読んだ。その方は「国会議員たちが意思決定をして自衛隊員がイラクへ派遣された」ときや「徴兵制」になったき、「その決定の手続きが完全に合理的で合法的だったとしても、ひとりひとりの人間には、必ずその全体に否を突きつける自由、言い替えれば、社会から降りる自由がある。」とおっしゃってる。
つまりあたし流に言えば、「議員達の意思決定」とは議会制(代表制)による多数決で決まったことであって、それは、議会制民主主義(自由主義)に否というのとおなじ事だよね。で、そのとき、政治的にはその人はどんなシステムを選びたいのだろうか?自由主義(=多数決)に否をつきつけたら、後は貴族政治?それとも、この「降りる自由」とはなにか新しい考えなのだろうか?
いや、変える自由がある、ってことなら分かるんだけどね。普通はそうと思っていると思うんだよ。(多数決で決まった後でも、もちろん、変える自由があると)。議会制を変えることだって出来るだろうし、徴兵制なんて案がでれば、否っつってる議員を選ぶし、デモにだって出るよ。ということを信じている、いや、正確に言えばそれを信じるしかないと思っている。ただ、どんだけデモやっても徴兵制が決定されたなら、そらあ、あたしは「逃げろ!」というけどね。
ただ、「降りる自由」という話しが当てはまるのかなあ、と思うのは、たとえば、あたしは「ホームレスの人で救済されたくない、ほっといてくれって人はどうなるんだろう?」と思ったことがあって、これはどういうことかっていうと、社会生活から逸脱しました、という場合、救済の手が伸びる行政システムがあるじゃない?(いろいろ行政の考え方には問題があったり、でもNPOの活動なんかで新しい動きがあったり)、でも、救済されたくないって人をどう考えればいいんだろう、ってときなんだけどね。でもなんかすっきりしないんだなあ。