人相学的選択

若い頃、友達のお母さんが言った。「そりゃあ、投票するときは立候補者の人物を判断しなくちゃダメよ。」「わあ、すごいです。どうやって人物を知るんですか?」「それはね、顔を見て決めるのよ。」わたしは感動した。ポスターを見て一番可愛らしく笑っている人に投票していたわたしは、人格なるものを外見から読みとるということにマジでフルエタ!(笑)
森前首相が米軍の潜水艦激突の事件の時、ゴルフを止めなかったというので、TVでは「誠意がない!」「政治家としての人柄を疑うわ!」というおばちゃんらのコメントを盛んに放送していたけど、なるほど、彼女たちにとって、政治はチマチマした地元の利益を足し算して、貴族的な善き人格のエリートに任せればいいんであって、ならば、ソレをどのようにして判断したのだろうかと考えれば、やはりカオだろうなあと思うわわけで。だってTVの政治討論や各党の考え方なるものから人格なぞ判断できない。ソレは顔によってなされる。笑)
人相学的選択を笑えばよろし。だけど、政治家の資質として善も悪も相対化できるような図々しさと強さと賢さをそなえた海千山千ぶりが要求されるのなら、政党の考え方を判断しなければと思うのだが、ところがそれが難しい。わかるようでわからない。(偉そーな人達だってどこまで分かってるのか疑問。)
昔、イギリスである大プロジェクトが失敗しそのあたりの事情をつまびらかに追っていくというルポを読んだことがあるけど、失敗の責任を誰か一人の者に帰せることができず、それぞれのセクションごとにセクション内部の義務の達成に向かってそれぞれが懸命な努力を続けていたにすぎなかった、という話しだった。こういう状況というのは、敵が見つからず、これが敵だと思って再考を要求したり、待ったをかけても、的がはずれて効果がない。しかし、多くの者がこれはたいへんな状況であると思うばかりで、事態はそれぞれの糸がからまり繋がり、一つの道、失敗への道を選択してしまう、ということなのだ。
なんとなく胸騒ぎがしないだろうか?(・・)