死刑を考える

現代思想』とかいう雑誌を読まなくちゃ。「死刑を考える」特集らしい。うーん、この問題は難しい。フロイトがいうように人間に死の欲動(攻撃性)があり、「いかなる超越的規範もない、ただ力のみが支配する」そのようなものと結託する勢力が相変わらず出現してくる現在、懲罰的な暴力(死刑)は、肯定されるしかない・・。うーん、と、続きは明日考えよう。これから飲み会。

3/14二日酔い。もう酒はひかえよう・・。おおざっぱに考えれば、「死刑肯定論」って、「ホッブス的自然状態から出発して超越的規範がなく、力のみの支配がある抗争の場に抵抗するため、責任(自由)や倫理的なもの(法)を立ち上げた」モノなんしょ?ちゃうの?この憶測が大筋であってるとすれば、これを崩していくのは大変だなあ・・。眠い。

例えば、殺人はいけない、とか、主権国家に侵略してはいけない、とか、テロはいけないとか、とか、国際法とか、法とかに書いて(あるもんなのかどうか知らないけど)書いてあったとしたら、違反者には国連とか国家が制裁や懲罰としての死刑を科しますよ、ってことが、、法に永遠性、普遍性を付与する、って構造があるんだと思うんだよねえ。当然、責任というか道徳というか倫理がそこにはあるわけさ。だから、死刑肯定論って、わたしなんかは、そういうことで説得されたら、とても困る。で、例えば、死刑がないとして、オウムの麻原被告なんかには、教育刑のような考え方で懲罰を与えるのかなあ?実際、法廷での彼はとても様子がヘンだったし、診療保護されるのかなあ?で、直ったら自由にすると。で、そういう風になったとき、人を殺すなかれ、という禁忌にまつわる道徳はどうなるんかな?その犯罪自体は裁かれなかったわけで、つまり犯罪という事件も責任も道徳も綺麗さっぱり、解消されちゃうのじゃなかろうか?

3/15『現代思想』3月号をちょこちょこと読む。

転載
カントの議論によれば、罪人は「人間の固有性」である尊厳のために、罪人は判決の正しさを認めなければならず、自分自身に死刑判決を下す司法的理性の正しさを認めなければならない。されにそれだけでなく、その処罰を要求しなければならない。つまり、外から来るあらゆる処罰を、内部において自律的な処罰へと変化させなければならない。この論理を突き詰めれば、罪人は自分自身で死刑を下し、「あたかも罪人が自殺するかのように」死刑を自己執行しなければならないことになる。しかしそうなると、純粋な法の領野を識別することはできなくなる。こうしてデリダは、カントの議論における内/外、自然的/非自然的、自律的/他律的、自己処罰/他者処罰、死刑執行/自殺といった区別が、相互浸透しており、決定不可能であることを明らかにするのである。(松葉氏)
つまり、このデリダって人は、「正義、または善悪が決定不可能」だと言うのかな?そもそもの元が決定不能みたいなところを頑張って理論になってるみたいなモンをわざわざ別の角度から「決定不可能」だと言ってるのかい?そしてこのカントの言ってることはとても正しく感じられ、罪人がカントのいうように罰を引き受けるのだとしたら、それは、全ての被害者とその家族は救われる、とさえ思う。そして罪人は赦される(心がやすまるだけかもしれないが)。しかし、現実はそのようになっているとは言い難いのではないかと普通は単純に思うよ。
柄谷によれば、カントにとって善悪は自由であれ、という命令によって出現する。人間は自由の刑に処せられている、と言ったのはサルトル