『メランコリーと行為』

全体主義―観念の(誤)使用について
ジジェク、おもしろいね!元司書どの。すごい人じゃないのぉ!しらんかったワ。ジジェク全体主義 観念の(誤)使用について』を読んでいる途中。メモメモ。
スターリン時代の粛清についての力強い分析が、『メランコリーと行為』の章で、ボディブローのように利いてくる。

そして−−ここが問題の核心、つまりデリダの方法のもっとも肝心なところなのだが−−問題は、単にマルクスの特定の形式や彼が提案した方策を捨て去って、他の寄り適切な形式や政策を使うということではない。むしろ問題は、マルクスの「精神」を構成するメシア的な約束がいかなる特定の形式、いかなる明確な経済的、政治的方策への変換によっても裏切られてしまうという点にあるのだ。
マルクスを「ラディカル化」するテリダの基本前提は、そうした明確な経済的、政治的方策は「ラディカル」になればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場である)、実際にはラディカルでなくなり、ますます形而上学的な倫理的−政治的地平にとらえられたままになってしまう、ということである。いいかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味するのは、ある意味で(正確に言えば、実践的な意味で)「ラディカル化」とは正反対のことである。つまり、現実的でラディカルな政治的方策は何であれ断念するということである。
デリダ政治学の「ラディカルさ」は「来るべき民主主義」というメシア的約束とその積極的な実現との還元不能なギャップをともなっている。ほかならぬこのラディカルさゆえに、メシア的約束は永遠に約束のままにとどまり、一連の明確な経済的、政治的方策に転化されることはありえない。
決定不可能な<もの>という深淵と個々の場面での決定とのずれは、埋められないのだ。<他者>に対するわれわれの負債は、返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対するわれわれの応答は、けっして適切なものにはなりえないのである。

アンティゴネの倫理、ジジェクがいうところの(<もの>と直接同一化してなされる決定)−−この「アンティゴネの決定」はまるでカントの倫理ではないか?と思う。
カントの法の考え方は柄谷によれば「国際法的」だということだ。そして「アンティゴネの決定」。倫理と政治のギャップを見るべきではない、というジジェクは、カントの義務を言う。それは「自由でアレ」という命令/義務と考えたくなる。
誰が命令するのか、というところのデリダの「応答責任」についての本は読んでいないけど、ジジェクが書いているラカンの倫理、(カントの倫理も加えたい)は、したたかに全てを考慮した上での「行為の倫理」。デリダの倫理は内なる倫理なのか?しかし内なる倫理は「倫理と政治のギャップ」の中で宙吊りになる。