男女共同参画社会と自由

男女共同参画社会」*1の形成におけるバックラッシュ派―と言うのかどうかわからないけど―についてあたしの憶測独断推断。

会長の主張に対して、「男女共同参画社会基本法」の理念に則ろうとしているフェミニズムなどの市民運動派の主張は道徳的。
会長は、この基本法の実施が福祉国家、社民的な国家へ向かうものだとして、(経済的、自由主義者として)反対していると考えてみる。そうすると、対するに市民運動派の主張というのは、差別や不平等の撤廃という主張だけでなく、反体制的(反システム的)で、(アナーキーな)自由さを孕んでいた、と見えてくる。けれど、会長が見抜いているとおり、それらの反システム的な自由さは社民的な国家権力に吸い上げられてしまうように見える。つまり会長と市民運動派は共に反国家的な要素があるのじゃないか・・。わからんけど。なんつうか、社民的国家か自由主義市場経済(小さな政府)か、という対立があるんだということなら、わかるような気もするんだけど。
印象的なというかポイントはここにあり、ってな会長のことば。「育児をしてもらう子どもにしても、介護をしてもらう高齢者にしても家族にしてもらいたい人が非常に多い」。確かに育児も介護も、「奉仕の世界」だと思う。本質的に資本主義経済の形態とは違う贈与、互酬的な相互扶助なわけで、これらは完全に市場経済化できない。
そしてこの「少子化」という事態。すごいな・・。資本主義が請け負うことが出来ない「自然」は、図らずも、男性中心の資本制経済の形態に転換を迫っているのだから。感慨深いよ。けれど、社会民主主義国家は資本主義が生き延びる唯一の道だと柄谷が書いていたなあ。