靖国参拝と反日感情

ここの*1劉傑教授というかたのお話が興味深い。「靖国参拝」について抱いていた長年の謎が少しとけるような気がする。
A級戦犯がまつられている靖国小泉首相が参拝することは、例えば、「ヒトラーの(あったとして)墓にドイツ首相がお参りするようなモンだから」と言われても、実はあたしはそれでも何故、中国が怒るのかがわからない。そもそも日本人一般を嫌いでしょうがないように見える中国の人にとって、処刑されたA級戦犯がどうしたっていうんだろう?あたしは「ああ、わからないわからない」と思っている。もっと言えば、あたしはA級戦犯だけが悪かったと思っていないのだ。日本のアジアに対する侵略戦争について聞きかじればかじるほど、日本国民に全く罪がない、なんて口が裂けても言えない、と思い、心に澱のような申し訳なさが溜まれば溜まるほど、あたしはアジアに対してだけではなく「おまえたちが悪いんだ」と処刑されたA級戦犯に対しても申し訳ないと思うのだ。
ところが劉傑教授は、「30年前、日中国交が正常化されたときに、日本の侵略戦争の責任はA級戦犯が負ったということで(暗黙ではれ)合意され、日本国民に罪はないんだからと、中国では友好関係を築く努力が為されてきた。(自分が知っている限りで、7.80年代まで)中国では、日中友好教育が(反日教育ではなくて)なされていた。」とおっしゃる。なるほど、であるのなら、小泉首相の(A級戦犯)参拝は、中国の老成した政治的判断を無にするものだし、中国がどうしても靖国について譲れないはずなのだ・・。
劉傑教授のおはなしは、大人な中国(観念的、理性的)、ガキの日本(小泉首相−動物的ポストモダン)という、階層的なパースペクティヴで、実にすっきりとあたしに靖国参拝の非を教える。
しかしはたして「小泉首相のトンチキ!」ぶりだけが問題なのだろうか?大戦後、世界は戦争責任者を処罰したあと、残りの国民の責任を問うことなく必死で再生してきたのだろう。つまり、(戦争なぞイヤだった)国民は構造的にそうした図式に組み込まれた駒に過ぎないというような歴史的パースペクティブ、観念は、個々の抑圧された記憶や個々の自由(責任)という断片を逆に呼び覚まさずにはおかないのではないか。
ある意味で、日本人として、個人として、自由でありたいと願うからこそアジアに頭を垂れれば、ひょこり顔を出す罪の意識は、靖国参拝に象徴されるような争点として互いの不理解、不信感、ルサンチマンのもと顕在化する・・。