申し訳なさ


ここ*1を読んだ。あたしの10/13日分の「申し訳なさ」をもちょっと煮詰めてみる。
たとえば、集英社への抗議―に日本兵の子孫や遺族の傷心(やり切れなさ)をみれば、「近代」と「反近代」というイデオロギー的対立のはなしを思い出す。「近代の超克」について柄谷行人というかたが考察していて、(必要なとこを取り上げると)早い話が「理性は間違う」と書いてある。信念(理性)こそが残虐非道になれると。むかし、十字軍は(愛を掲げ)信念(イデオロギー)のために戦い、(必要なだけしか殺さない)動物たちにはまねができない残忍さを示したではないか、というような話しだ。
こうした分析を読むと、イデオロギー、理性という問題は国家国民にまつわる問題であり、「やりきれない」とか「罪なんて感じない!」っていうような個人的な倫理の問題とは分けて考えることが可能で、日本兵の子孫であるあたしは何も日本人であることを恥じたり卑屈になったりする必要はないんだと勇気づけられる。
あたしにとっての「申し訳なさ」とは、例えば、あたしの息子とキリノ大統領の娘の孫かひ孫が友達になったらどうなるだろう、というようなことだ。その孫かひ孫は日本兵にたいするたくさんの記憶を持っているだろう。そのとき倫理的な態度をあたしは持ちたいし、その倫理的な姿勢はあたしの自由のことでもある。