解決不可能性を維持すること

たとえば、こんな話しがある。ある日、(夫+子持ち)の彼女に好条件の仕事のオファーがあった。喜ぶ彼女に義父は言った。「乳飲み子がいるんだ。仕事をしてはいけない。」

もし彼女が義父の言うことを受け入れるなら、その心理的、信条的な背景はこんな風になる。「わたしは同族会社に就職したようなものだ。居心地よく暮らしたいのなら自分の利害を捨ててかかるような倫理的態度を持とう。これはわたしの内面的な問題だ。凛とした強い女になろう。」
このとき「父権制に同一化するこうした態度は女性差別を温存し、彼女の倫理観は父権制を補完する社会的規範に安易にのっかっている云々」というような批判が無効になるのは、彼女にとって外部的な「不当で不条理な扱い」というものは無いからなのだ。

逆に彼女が義父の言うことを受け入れないときは、彼女は義父と対等の立場−夫との家庭を築こうとしている自律した女として−あろうとするわけだし、「働こうが働くまいがあたしの勝手」なのである。この場合、家族関係は破綻しかねないところまでいく。いろんな関係者を巻き込んで、別居、離婚、家族同士が疎遠になったりする。そこを突破しようとする彼女の姿勢は倫理的ではないだろうか。
「不当で不条理な扱い」という外部にある問題は彼女にとって絶対に解決不可能なものだ。もし、解決可能だというならば、彼女は単に何処か余所の規則に同一化しているのにすぎない。倫理性が維持出来ない。