やすくに

小泉首相予算委員会で「靖国参拝を前提にして・・」と言っている。
彼は何を考えているのだろう、ずっと不思議だった。
なるほど、彼は、戦争の「負債」からの「解放者」なのかもしれない。
もちろん、日本が先の戦争で侵略の加害者だったという事実は消えない。そうではなくて、「債権者」対「債務者」という不毛な縛りつけ、夢の持てない・関係・からの開放。


小泉首相は十六日、予算委員会で、靖国神社参拝の理由について「戦没者を追悼し、二度と戦争を起こさないという、ごく自然の気持ちを実践してきた。わたしは何ら問題があるとは思っていない」と強調。中国などが靖国神社に「A級戦犯」が合祀(ごうし)されていることを問題視していることについて「『罪を憎んで人を憎まず』というのは(中国の)孔子の言葉だ」として、批判はあたらないとの考えを示した。

小泉さんが、欧米の「和解路線」の追い風をうけているにしても、「不毛な関係」からの「政治的な開放」の試みは「追悼」を巡って為され、それは感情を動かす戦争のイメージそのものだ。
中国や韓国の非難は根底的には痛み、傷心があり、それはcharis氏が書いていたように「我々自身が戦争とどのように向き合うか」という問題−中国や韓国の靖国非難の問題−に循環して戻ってしまうのだ。

それとも、この問題が循環しているように見えるのは、まだ、わたしが渦中にあるからかもしれない。政治的な開放は、感情を変化させるかもしれないのだから。


追記(5/21):
参照2005-05-21
「増悪や悪意といったエモーショナルなものを双方に・作り出す・不毛な関係」「この関係を越えてこそ、歴史に向き合えるのでは?」とコメント欄であたしがごちょごちょ書いてるのは、こうゆうこと(リンクしたとこ)が言いたかったわけなのであります。ホント。