政治制度−像と倫理

現行の政治制度に対する漠然としたイメージを、個々人は持っていると思う。そのイメージの違いが、個々の倫理的感情の違いを生むのだと考えてみる。

たとえば、わたしは父にたいして介護保険を利用したことがある。今はほとんど使っていないが、そのとき、ケアマネジャさんは「支援を減らしていく方は始めてです」と言った。普通はどんどん要求がふえ続けるそうだ。「支援を減らして自立していくというのがほんとうだと思うんですけど。」と彼女は言った。*1福祉の仕事をしているかたは「家族の愛情が一番。家庭で面倒をみるのが一番。」とよくおっしゃられる。それはほとんど、被介護者を福祉行政に任せて安心しているらしい家族に対する嘆きのようにも思える。被介護者の無気力や生活の自立性が後退していく様を家族のかかわりの少なさに見て取る向きもあるのではないかと思う。介護保険は始まったばかりだが、福祉の仕事をしていかたがたにとって、「被介護者が自立的に生活が送れるようにお手伝いをする」という彼らの理想や思いがうまく機能していないのではないかと推測する。

すでに現行の介護システムはなんらかの問題を抱えていると思われる。そして「小さな政府」の現政権は福祉に公金をどんどんつぎ込めない、らしい。そこに利用者ははっきり意識せずとも、政治制度にたいするイメージを持つことだろう。「家族の愛情」といった倫理的感情はそうしたイメージ(構造)に対応して出てきているのだと思う。結社−NPOでもなんでも作って下から頑張らなければたいへんだ、という倫理観。「小さな福祉政策」にたいしては、ばらばらな個々人といえども、防御的に共同体主義的な倫理を抱く、ということになるだろうか。

しかし、違うタイプの政治制度像を描くことはできるはずなのだ。

かつて小野田さんの時代、どう考えても抑圧的だった民主主義体制のなかから、彼らのような自由で強い個人が生まれたのはなぜなのか?ヨーロッパ型の民主主義、北欧の福祉社会は、日本とどう違うのか?

余計なことを言えば、山谷議員の「愛と献身と調和と祈り」という理屈もそういう意味においてはわかるのだ。最近は男性も仕事の帰りに買い物をし、料理を作り、掃除洗濯をし、子どもの世話をするようになったらしい。家事はみんなでするもの、であるなら、誰が手を空けるかでもめるかもしれず「愛と献身と調和」はうってつけかもしれない。ましてや家族の形態が変化してきている今、子どもを大人が一人で育てるようなことも多くなるかもしれない。そんなとき、回りから「愛と献身と祈りと調和」の手がさしのべられるのは、大いにあり得る。

しかし、それも政治制度像が変化するればまた違ってくるものなのだと思う。

*1:「支援を減らして自立していく」ということの是非はあたしにはわからない。他にも考えようがあるような気もする。