「家事」とはなんだろう?

「家事」とはなんだろう?家事は衣食住を維持、整備、遂行することであり、生きるための根本的な行動。そういう意味では仕事すらも「家事」の維持のためにあると言える。もっと考えれば、「家事」には基本的人権の自由、平等といった概念も孕まれるのではないかしら。

ところで山谷議員は「家事」について「愛、献身、調和、祈り」という倫理的感情を強調された。わたしは下のエントリで、そうした倫理的なるものは、政治システムという仕組みのなかでしか生きることができない庶民が、自らの政治制度に対するイメージによって、(それが意識されるにせよ、されないにせよ)、うまく保障されない自由や平等を補うために要請されるものが、「愛、献身、調和、祈り」といった倫理的感情ではないか、と書いた。

ここから、「家事は愛である」というコトバは出てこられないはずなのだ。「家事」は倫理とは言えない。倫理とは関係にまつわるもののはず。たとえば、あたしが一人暮らしなら、あたしは自分のために料理を作り掃除をする。料理をつくりながらあたしは味のハーモニーをイメージしている。それだけである。愛だの献身だの祈りだのといった倫理的感情はないだろう。*1もちろん料理を始める前には快、不快の情緒はあるかもしれないし、イライラしながら料理を作ってもうまくできないだろう。それはなにをやるときもでもそうだろうと思う。

しかし、これが、老女のあたしが親友の老女と一緒に暮らしたり、赤ん坊と暮らしたり、かぞくで暮らしたりし始めたとき、「家事」のまわりに倫理的なものが生まれる。*2つまり、あたしが言いたいのは「愛、献身、調和、祈り」というようなものは、「家事」そのものとは直接関係がなく、それは一緒に暮らしている人々との関係にまつわる倫理的感情が投影されているだけなのである。

新たな政治制度を夢見たり、仕組みを工夫してみたり、そうしたことに伴い、倫理的感情は変化していくと思う。それは、「愛、献身、調和、祈り」といった倫理的感情を違った状況や文脈のなかでながめ直すことでもあると思う。

*1:物語でしかないけど、昔々に、家事と仕事が曖昧だった頃は、奪うなかれ、とか、豚肉を食べるな、とか、そうした倫理観もあったかもしれない。

*2:倫理的なものは時の政治状況に対するイメージのなかで育まれるのだと思う。