家族/ディシプリン

NHK「日本のこれから−少子化」を見て。

司会者の質問に、60才くらいの男性たちが「それは私的な思いを聞いているのではなく、公として自分はどう考えるのか、ということか?」と問う。2.30代の男性が「自分のことを考えてそれが押し進められていけば公になる」みたいなことを言う・・。若い世代から拍手が起きた。司会者は若者と60才世代の中間の世代にみえ、彼は「とても大事な問題ですが、それを話すのは別の機会にいたしましょう。」とスルーした。

むちゃくちゃ、印象的だ!

つまり60才世代は「私的な考えと公を意識したときの自分の考えは違ってくる」と言っているのだ。ここからあたしの妄想は広がるのだが、たとえば、彼らがいわゆる、「公」のなかで「規律訓練的」に自分を作り上げてきた世代と考えれば、「個人主義的な若い世代」と「規律訓練型の世代」と、そのどちらも理解できる「狭間の世代」という図式が(矮小化だけど)思い浮かんでくる。

たとえば、冷戦時代、規律型社会での男は「家族主義的」*1な会社に勤め、家にあっては家父長的に君臨していた−これまであたしが抱いていたイメージだ。死ぬほど苦手な恐いオトコタチ・・。

だけどあたしはその前の世代である「小野田さん(大正11年生まれ)」をみて以来、その時代の教育や家族を規律訓練という側面から見たら新鮮なものが出てくるような気がしてとても知りたいのだ。鍵はもしかしたら政治的理念的なものなのかもしれないけど。なにかを学べるような気がしてならない。

自由主義は倫理と裏表の関係だと思うのだが、そのなれの果ては、イラク人質事件のときに政府が言った「自己責任」である。ここいらへんを思い煩っていると、60才世代の「公としての自分」発言にあたしは思わず目を上げてしまうのだ。

*1:ソニーの社史というような本を読んだことがある。それを書いたのは外国人なのだが、彼はソニーは巨大な「家族主義の会社だ」と書いていて、あー、そうか、と思いもしたけど、やはり衝撃を受けた。