家族/意図

わたしにとって結婚とは「一緒に居る」こと。わたしは子供を作るために結婚すると思ったことはない。
誰かと一緒に居て一緒に何かをする。一緒の暮らしは共同の行為、つまり共同の意図で満ちている、といってもいいだろうか?
意図は、行為の枠組みのようなもので、それは目的やイメージの物語、規則。子どもに何かをやらせようとするとき、その行為の手順、やり方だけを教えるより、その意図を説明したほうが子どもは、行為を創意工夫するというおまけつきで理解する。

たとえば、「キャスティング・ディレクター」のエディ。彼は相手と共同の意図を築くことができない。彼らは意図を見失っているのだ。子どもと過ごす、恋人とご飯を食べる、彼らはそうした行為のなかをさまよっている。「行為の枠組み=意図」を物語ることができなくなっている。
たとえば、瀬戸内寂聴サガンのスキャンダル。彼女たちは、わたしがいかに規則、意図といったものに盲目であったかを気がつかせる。そこの違いにおいて彼女たちの非平凡さが浮かび上がる。彼女たちの寄る辺なさは、理解しようとする相手がいたとしても、一緒に築きあげることはかなわず、破壊的であるよりしかたがなかったのかもしれない。想像だけど。

「枠組みを壊すこと」と「枠組みに盲目なこと」の間をすり抜け、「一緒に枠組みを作ること」はたぶんすごく難しい・・。