「日本とドイツ 二つの戦後思想」仲正昌樹

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

いったい、日本とドイツの戦後処理は何がどう違うんだろ、と長いこと疑問に思っていたので、この本に飛びついた。

本のおわりで仲正氏は次のように書いてはる。



日本の戦後思想史について「常識」として知られていることを、他の国と比較しながら相対化するというのは、なかなか難しい。「知っているつもり」のことでも、歴史的文脈を再構成しながら説明するのは容易ではない。

なるほど。面白い本でした。

この本によると、ドイツ(統一ドイツ)は交戦国に賠償はまだしていないのだけど、個人に補償をし続けてきたらしい。日本は、たぶん、交戦国や韓国に賠償(的なこと)はしてきたのでしょう?TVでみていたら韓国に7、8兆円払っているのだけど(当時の日本の国家予算が3兆円くらいのとき)、そのときの名目ではそれに個人補償も含めるとかゆってたような。つまり、よくわからないけど、日本はドイツに比べて、国に対する賠償と個人に対する補償という違いはあっても、金額的にはドイツと遜色ないくらい払っているのではないかとあたしは、想像しているわけ。

けれど、いまにいたって、日本は韓国や中国などから信頼されず嫌悪されており、かたやドイツはかつての交戦国から信頼を得るに至っているようだということ。

たぶん、国家間の賠償という方法は、道徳的な罪と形而上的な罪というような概念、発想を日本国民に広く共有させる必要がなかった。だから逆から言えば信頼されるためには、この二つの概念に則った政策が必要とされるってことだよなあ。

靖国問題みたいに*1、中国や韓国のデモ隊が首相参拝で怒るのは、もしかしたら案外、「ほらみろ、ちっとも悪いと思ってないんだ」ってことじゃなのかなあ、とあたしなんぞは思うわけで(もし、そうならだけど)、デモ隊の気持ちに報いるために、道徳的、形而上的な罪という概念から靖国問題を処理しようとすれば、「国のかたち」みたいなイデオロギーがぞろぞろ引っぱり出されてきて収拾がつかなくなったりする。歴史教科書問題もしかり。

だから、個人にたいする補償をしていくことが必要なのじゃないかなあ・・。
贖いをわたしが理解するためにも

*1:高橋哲哉氏は「祀る国は戦う国だ」と書いてはった。高橋氏がいうように、無宗教の追悼施設、日本人もアジアの人もすべての戦争の犠牲者を追悼するものを作ればいいのに、って思うよ。ただ、このとき、「国のかたち」やアイデンティティをわたしがどう考えているかと言えばそこには道徳的な感情と戦略的な見方しかないんだと思う。わたしがアイデンティティ的なものに拘りがない、つもりでいるのは、たとえばイギリスに住んでいるアジア人というような立場を知り得ず、日本に住むまったき日本人であるという安穏さに浸されているってことなのかもしれないけど。